急いで近づいてみると、そこには〝六左衛門〟という暖簾が出ていた。どうやら酒場のようだが、はて……こんなところに酒場とな? 男は少々訝しんだが、体はとうに冷え切っている。鬼が出るか蛇が出るか、もはやどちらでもよい。男はその中へと入っていった。
中はまるで、お大名様の住むお屋敷のように広くて明るかった。立派な柱と梁、見事な装飾の欄間(らんま)に美しい照明。どれもこれも初めて見る光景に、男は言った。
「ここは、天国じゃなかろうか」
男は奥にある机に座ると、置いてあった品書きに目をやった。〝ビール〟なるものを店の女将に頼むと、しばらくして男の前に差し出された。
琥珀色に輝く泡の液体を、男はグビリ、グビリと飲み込んだ。
「こいつは、うんめぇ酒だ」
ほろ苦い芳醇な香りが、クーッと伝うのど越しに、たまらず男は歓喜した。それを何度も味わっていると、このビールに似合う〝アテ〟が欲しくなってきた。男はまた品書きに目をやり、女将に言った。
「釜めしを、くだせぇ」
そして、またしばらくすると男の元にはしっかりと蓋で閉じられた『釜めし』が差し出されたのだ。男は、ゆっくりとその蓋を開けた。
ひゃあ……、
こいつは驚いた……!!
蓋を開くと、まるで浦島太郎の玉手箱を開けたかのような煙……いや、湯気に包まれた。甘じょっぱい醤油の香りの中に、牡蠣の豊かな香りが混ざっている……そう、これは〝牡蠣の釜めし〟だった。
男は、しゃもじで窯底から飯を〝でんぐり返し〟させると、そのまま箸を刺して食らいついた。あっさりと出汁醤油で味付いた飯はキノコとの相性がすばらしく、たまに当たる〝おこげ〟をうれしそうに頬張った。米粒のたくさん付いた大きな牡蠣は、ふっくらとこれまた滋味深い。
「ガツガツ、ムシャムシャ、グビッグビッ……」
男は夢中で釜めしをがっつき、それをビールで流し込んでいった。
「ぷはぁー! こんなうめぇもん、おっ母ぁにも食わせてやりてぇ」
お屋敷のような豪華なところに、旨い釜めしと酒。男が言ったように、ここは本当に天国だったのかもしれない。あっという間に釜めしとビールを平らげると、腹をまん丸に膨らませて店を後にしたのだった。
──その後、単なる〝方向音痴〟だったという私は……いや、男は、都に戻るまで二時間かかったという伝説が、今も恋ヶ窪の町に残っているとかいないとか。