(ブルックリン、、?)

江戸あらため東京は、れっきとした首都である。
なのにどこか卑屈で、いつも別の場所に憧れている。

永井荷風は『日和下駄』で、「東京には見るべき場所がない」と嘆く。
(にも関わらず、彼は東京が大好きである)

私も東京の風景が、ヴェネチアの水上都市やパリのシャンデリゼ通りのように、
目に見えて美しいとは思わない。

東京は「見立て」によって、
つまり、現実の上に別の理想の現実を重ねる
“二重の目線”によってこそ、美しくなる。


さて、ブルックリンこと蔵前は、浅草の隣にある街だ。
職人気質のカフェやクラフトチョコレートの店、古い倉庫を改装したホテルなど、全体的に「ものづくり」の気風が漂っている。
ミモザと桜が咲く、小さな神社も有名である。


その駅の近く、3階建てのカフェがある。
カルダモンで香り付けしたホワイトチョコとベリーのケーキが感動的に美味しい。

訪れたとき、ちょうど雨が降りはじめ、
スザンヌ・ヴェガの「Tom’s Diner」を思い出した。

https://youtu.be/sB_TcOd1QMs?si=MZPP-lIbJfGsZT7Y

雨降る街角のダイナーで、時間を潰している女性の歌で、
もの憂げな声音と「さみしい」とは一言も言わないのに、現代的な孤独を感じさせるところが好きだ。

だから、私も想像してみる。
私はブルックリンのカフェで、雨宿りしながら電車を待っている。
いや、本当はひそかに会いたいと思っている人がいて、
その人がもし偶然店に現れたら、この後の予定なんかないふりをしようと決めている。

そういう偶然が起こらないことは分かっている。
だから半分しか入っていない冷めたコーヒーを、ぼんやり眺めている。

そんな空想である。

この話を人にしたとき、珍しがられ、面白がられた。
でも、私にしてみれば、こうでもしていないと目の前の現実が退屈で、日常が灰色なのである。

最初に、東京は現実の風景に
別の理想の風景を見立ててこそ、
ようやく美しくなると書いた。

このことは、日本の古い美意識とも響き合うように思う。
例えば枯山水などがそうだ。
枯山水はただの石と岩に、無限の水の流れや自然を見出す。

不忍池に京都の風光を見ることも、これと同じ原理だと考えると面白い。

私のささやかな“東京論”は、
まったく的外れかもしれない。

しかし、東京は最先端であると同時に、
たまにびっくりするほどの古さを隠し持っている。

だから、蔵前をブルックリンだと見立てることは、
私にとってこの上なく東京的で
日本的なことに思われるのである。