今回の“会いに行きたい!”
きのえ温泉『ホテル清風館』バーテンダーの田村知行さん
瀬戸内の風景を形にした、島の柑橘を使ったカクテル
ラウンジの窓や露天風呂からは、大三島や大下島(おおげしま)、小大下島(こおげしま)などがぽっかりと浮かんだ、多島美の景色が広がる。
「バー サファイア」のバーテンダー・田村知行さんは、朝夕に刻々と移り変わる瀬戸内の風景を、18種類のオリジナルカクテルで表現している。
なかでも特に思い入れが深いのが「フルムーン大崎」。瀬戸内海から眺める満月の幻想的な風景を、カシスとライチリキュール、島のグリーンレモンで薄紅色のカクテルに仕立てた。満月はミントチェリーで表し、海面を照らす月の光がたなびく様子は、隠し味のカルピスでグラデーションをつける——。
田村さんは東京・荒川区で生まれ育った。大崎上島とは縁もゆかりもなかったが、リタイア後にこの地で二拠点生活を送っていた元同僚のすすめがきっかけで移住を決意した。
「初めて訪れたのは2014年。瀬戸内海の美しさにすっかり魅了されてしまったんです」
引退後の終の住処(すみか)として千葉県白井市に居を構えていたが、広島の大崎上島に惚れ込み「空き家バンク」に登録。半年も経たないうちに住まいが決まり、2016年にはこの地へと移り住むことになった。
「離島と聞くと生活が大変そうな印象がありますが、大崎上島にはスーパーが2軒、開業医の診療所は7〜8軒。歯科医院もあり、生活に困ることはありません。定年退職者にはちょうどいい環境です」
こうして、離島での新しい暮らしが始まった。
トントン拍子の縁でホテルのバーをまかされる
田村さんは21歳で東京・六本木のバーでアルバイトをして、24歳の時に『帝国ホテル』に入社。以来、67歳で退職するまでの43年間をバーテンダーひと筋で歩んできた。
「バーテンダーになるなら一流のホテルでやるべき」という六本木のマスターの助言に従い、伝統と格式を重んじる『帝国ホテル』を選んだことが、田村さんのその後の人生を形作る。一流の技術を学び、研鑽を重ねた。
「われわれの仕事はアスリートと同じ。おいしいカクテルを作れるようになるには、シェイキングやミキシングなどの練習量がものをいいます」
会員制バーでVIP客を迎える際には、顔と名前を瞬時に覚えることも仕事のうちだったという。
一流ホテルで長年勤めあげても、退職後、すぐに仕事が見つかるかといえば、難しいご時世。しかし、田村さんの場合は違った。
「移住したとき、役場の方から『まだ仕事をされるなら、ハローワークに登録してみませんか?』とすすめられたんです。ホテルのスタッフ募集はありましたが、バーテンダーはなくて。だから、皿洗いでも草むしりでもなんでも、やるつもりでした」と笑う。
その日のうちに役所の人がすぐにホテルに連絡してくれて、社長から「明日、お会いしませんか」と電話が入った。訪ねてみると「わしもバーがやりたかった」と言われ、話はトントン拍子に進んだという。「私自身が一番びっくりしました」
こうして、ロビーラウンジの一角に「バー サファイア」が誕生した。
移住して9年。「長く住めば住むほど、景色が違って見えるのが魅力です。お客さまに『どの季節がいちばんいいですか?』と聞かれれば、『春夏秋冬、すべてによさがあります』と答えています」
新鮮なレモンを使った島ならではのカクテルを
『帝国ホテル』で培った技術と知識をベースに、77歳のいまもバーテンダーとして現役で働く田村さん。
ウイスキーはシェリー樽熟成の「ザ・マッカラン」や、スモーキーで個性的な「アイラモルト」などを取りそろえる。田村さんが「ぜひ味わってほしい」と話すのが、都市部では手に入りにくい、フレッシュなレモンやミカンを使ったカクテル類だ。
「瀬戸内ブルー」は2017年、広島県の「里山創作カクテルアワード」ドライカクテル部門で第3位に入賞した作品。瀬戸内海の色を表現し、大崎上島のレモンを使った一杯で、名前はブルーだが実際は緑色だ。「瀬戸内の海の色は、なんともいえない美しいグリーンだから」と田村さんは言う。
「都市部のバーやホテルでは、レモン果汁とのブレンドや、外国産レモンを使うことがほとんどです。ここではレモンにワックスもかかっていないので、皮ごと食べられる。瀬戸内のレモンをこのバーでぜひ味わってほしいですね」
「みかんの島」と名づけたカクテルは、11月下旬から12月初旬にこの島で収穫されるミカンを搾って作る。鮮やかなオレンジ色が特徴だ。
大崎上島での時間は、どこか違うように感じるという。「一日はどこでも24時間のはずですが、ここでは時がゆったりと流れるんです」
東京で働いていた頃よりも、本をじっくりと読めるようになった。休日には庭に植えた「門かぶり松」の剪定を楽しみにしている。
「この仕事を天職だと思っています。体が動く限り、オリジナルカクテルやおいしいウイスキーを提供し続けたいですね」
週5日、20時から23時までのバータイムが田村さんの仕事時間。離島でののどかな暮らしぶりを聞いていたら、どこかに移住したい気分になった。人生の先輩に話を聞いてもらいながら、自分の人生を見つめ直したいときは、旅先のこんなバーを訪れてみるといい。
おすすめ立ち寄りスポット
『木江(きのえ)ふれあい郷土資料館』「風待ち港」の歴史を知り、体験できる
江戸時代から明治時代にかけて北前船で栄え、大正時代からは造船業が発展。「黄金の島」と呼ばれるほど栄えた大崎上島の歴史をいまに伝える。
『Shiki Farm(シキ ファーム)』島で採れた果物や野菜で染める
カフェ、ドッグラン併設の体験農場で、草木染め体験もできる。手ぬぐい、エコバッグ、ストールは所要1時間30分〜、一人3300円〜(要予約)。
取材・文・撮影=野添ちかこ
『旅の手帖』2026年3月号より








