今回の“会いに行きたい!”
萩温泉郷『萩の宿 常茂恵』女将の厚東(ことう)啓子さん
萩の迎賓館として政財界の要人たちを迎える
『萩の宿 常茂恵』は大正14年(1925)、萩の迎賓館として産声を上げた。初代の館主である厚東常吉(つねきち)は山口県議会長から衆議院議員になった政治家で、あだ名は「雷鳴(らいめい)」。
日産コンツェルンを創った重工業王の鮎川義介(よしすけ)や、日本画の巨匠・松林桂月(けいげつ)ら政財界の要人や芸術家たちがこぞって訪れた。
「常吉は萩の発展のためにバス会社をやったり、橋を造ったり、松陰神社造営に寄与したりと、いろいろなことをしています。子どもの頃からはみ出しもので、枠にはまらない生き方をした人でした」と常吉の孫の嫁、女将の厚東啓子さんは言う。
血のつながりはないが、常吉の遺志を継いで、萩の発展に尽くしてきた。
宿には伊藤博文(ひろぶみ)や佐藤栄作ら、時の総理大臣が揮毫(きごう)した書が飾られている。
現在の建物は1989年に「萩の城下町」をイメージして移転新築したもので、敷地2700坪のうち、枯山水の庭園が1000坪におよぶ贅沢な空間設計である。さらに“米国の人間国宝”といわれるジョージ・ナカシマの名作家具が美しい空間の格式を高めている。
宿は新たな出会いの宝庫。社員が新プラン考案も
宿から車で5分の場所の松陰神社の境内に、高杉晋作や桂小五郎(木戸孝允〈たかよし〉)ら幕末の志士たちに影響を与えた、吉田松陰の私塾・松下村塾がある。啓子さんは旅行会社のツアーで、そこのガイドすることもあるのだそう。
土壁が連なる武家屋敷など、城下町の面影を色濃く残す萩は着物の似合う町。啓子さんが発案した「着物ウィークin萩」は、長年続いているイベントだ。
また、広島県・尾道市を拠点に活動する園山春二さんが制作した「福石猫」で、町をにぎわすことも思いついた。「全部で29匹。当館には2匹いますが、萩の町じゅう、いろいろなところにおいてきました」と笑う。
出会いを大切に、気になった人がいれば講演会を企画し、興味をもった場所には足を運ぶ。ほんわかとしたやさしい雰囲気から想像できない、行動力の人である。
「考えるより体を動かしたい」という啓子さんのリフレッシュ法は週に2回のヨガ。さらに個人レッスンも追加する。
40年前に萩の写真を撮った写真家のサム・エイベルが2023年11月、再び『常茂恵』に3泊4日で滞在した。
サムがかつて撮影したのは、城下町特有の鍵形に曲がった街路「鍵曲(かいまがり)」で年配の女性二人が出会い、お辞儀をする作品。
「そんな日常生活に日本人の精神性を感じたんでしょうか。サムは萩に来て『言葉を失った』と言うんです。サムが想う萩を知ってほしい」と女将は話す。
女将の巻き込み力は、自館の社員にも波及する。首都圏から移住した社員が発案した、維新の志士の好物を盛り込んだプランが人気で、2024年10月18日〜12月1日は「動と静の饗宴」を売り出した。
例えば、高杉晋作の好物は本マグロの漬けとタイの押し寿司、桂小五郎は焼き揚げ豆腐と塩ウニ。家紋を模した箸置きをプレゼントしたり、直筆の書を見せる特典をつけるなど工夫を凝らす。
「歴史好きな社員だからこその案が刺さったんでしょう。歴女のSNSのつながりがすごくて、たくさんのお客様がいらっしゃいました」
女将の目利きで選んだ萩焼や調味料をお土産に
ここは料理自慢の宿でもある。旬の食材を引き立てるのは、萩焼の作家の器。なかでも普段使いの器を作る、『ウチムラ工房』の内村幹雄さんの作品が女将のお気に入り。
「料理長と一緒に工房に行って、作ってもらいます。大河ドラマ『花燃ゆ』のときは、松陰の妹である文(ふみ)をイメージした『文プリン』の器を作ってもらったんです」
またスウェーデン出身で、ロイヤルコペンハーゲン社で絵付け師として働いていたこともある萩焼作家、南明寺(なんみょうじ)窯のニィルス・ベアティル・ペアソンさんの萩焼は、可憐な野の花を絵付けしたもの。彼が手がけた陶板は『常茂恵』の室礼の一部になり、コーヒーカップや皿はロビーラウンジで販売もされている。
そこには、女将の惚れ込んだ商品や健康食材も並ぶ。福岡・糸島の伊都の塩や熟成ニンニクの醬油などもその一つ。日本人初のスローフード大賞を受賞した武富勝彦さんが展開する「葦農(よしのう)」の商品で、有機・無農薬農法にも力を入れているという。
スペイン・マヨルカ島のエキストラ・バージン・オリーブオイル「AUBOCASSA(アウボカーサ)」は、朝食の温泉玉子の薬味だ。これもたまたま宿に泊まりに来たお客さんの扱う商品だったそう。
「『感動を通り越して衝撃です』とそのお客さんに言われて、スペインまでそのオリーブオイルを買いに行きました。確かにおいしいです」とにっこり笑う女将。
商品との出会いのストーリーを女将から聞いてみると、土産物選びがより楽しくなりそうだ。
大女将おすすめ! 立ち寄りスポット
山城ファン垂涎(すいぜん)の世界遺産の城跡「萩城跡指月(しづき)公園」
「萩城は早くに壊されたので石垣と土塀しかないけど、歴史の背景を感じながらそこに立つのがいい」と啓子さん。
齢(よわい)30で散った松陰の志を伝える「松陰神社」
当時のまま保存された松下村塾は世界文化遺産に登録。神社の造営に貢献した常吉の銅像(上)もある。
『萩の宿 常茂恵』の詳細
取材・文・撮影=野添ちかこ
『旅の手帖』2024年11月号より