今回の“会いに行きたい!”
蛇(じゃ)の湯温泉『たから荘』館主の小林悠二さん
ここは本当に東京都 !?
冬には、しんしんと降る雪が茅葺きの屋根に分厚く積もる。ここは東京都、多摩西部にある山深い秘境。武蔵五日市駅から路線バスに乗って山道を揺られること約1時間、いくつもの集落を通り越した最奥にその宿はある。
こんなに自然環境のよい場所が東京都だとは、にわかには信じ難い。
檜原村は島嶼(とうしょ)地域を除く、東京都唯一の村で、むかしながらの茅葺き屋根の旅館や民宿、住宅がいまも数軒佇んでいる。たから荘の二重兜(かぶと)の母屋は築300年以上。江戸時代中期の建物といわれている。
「30~40年に一度は茅を葺き替えなくてはいけません。34~35年前、私が小学校高学年の時に一度、葺き替えをしたので、まだ数年は大丈夫。茅葺き屋根の上に草が生えるので、草を取る作業に骨が折れます」と話すのは、3代目の小林悠二さん。
茅葺きの歴史ある建物は貴重な文化財
ロビーに置かれた年代ものの箪笥(たんす)や時計など、趣のある家具類は小林家で代々使われていたものだ。歴史ある建物を守ろうと、2012年に『たから荘』は国の登録有形文化財に認定された。
鋭角な三角屋根の兜造りは養蚕(ようさん)などに適した建物で、小林家ももとは農家だった。菩提寺に残る過去帳を辿ると、13代はさかのぼれるという。
湯治場としての開湯の歴史は定かではないが、南秋川でヘビが傷を癒やしていたのを見て、「蛇の湯」と命名された言い伝えが残る。
たから荘は悠二さんの祖父が、民宿として始めた。昭和48年(1973)に奥多摩周遊道路ができて以降は、観光バスが毎日のようにやってくるようになり、このエリアは一般の民家が民宿や食堂を始めて、にぎわいをみせた。
「お客さんがたくさん来たので、私も小学校の頃から祖父と店番をし、お土産を売っていました」と悠二さんは振り返る。
お着きの一品はジャガイモ。家庭的なサービスでもてなす
悠二さんは高校卒業後、アメリカの大学で機械工学を専攻した。海外留学をしたからこそ、足元にある日本の田舎や自然のよさを再認識し、宿を継ぐ決意も固まった。
そのままアメリカで就職する道もあっただろうが、24歳の時に宿に戻る。外に修業には行かず、料理は父親から習い、自分なりの方法で新しい秘湯宿を作り上げていった。
先代が1995年頃に「日本秘湯を守る会」に入会してから、同会を立ち上げた故・岩木一二三(ひふみ)さんのアドバイスもあって、2000年には10室あった客室を5室に減らし、トイレ付きに改装した。宿泊のお客さまに注力できるよう、昼食付きの日帰り入浴プランはやめた。
観光旅館によくあるようなお菓子と緑茶のウェルカムサービスではなく、『たから荘』ではお着きの一品として、塩茹でのジャガイモとネギ味噌が出てくるのもおもしろい。
「檜原村はジャガイモとこんにゃくが名産なんです。あれが食べたいと言って、わざわざ新ジャガの時期に訪れるお客さまもいます」
周辺の自然環境も手つかずで残っている。現在46歳の悠二さんは、冬は雪の中でソリに乗って遊んだり、夏は川に入ってヤマメを獲ったり、都市部で育った人では体験できないような子ども時代を過ごしている。
「ヤマメはモリでザッと突き刺して獲るんです。小学校は歩いて5分と近かったのですが、同級生は4人。全校生徒を合わせても20人くらいしかいない学校でした」
夕食のお膳に並ぶ山菜やキノコ類は山から採集する。訪れた時に出してもらったフキやワラビ、山ウドの葉なども裏山から採ってきたものだし、客室に飾られた色とりどりの野の花は女将さんが山から摘んできたものだ。家族経営の宿だから、家族総出でお客さまを温かくもてなしている。
リピーターに愛される、十割の手打ちそば
宿の名物ともなっているのが、悠二さんが打つそばだ。毎日昼過ぎ、悠二さんはそば鉢を取り出し、そば打ちを始める。水回しをし、こねてくくり、のす一連の作業は、20年以上続けているから、リズミカルで手慣れた様子だ。
「そば打ちは水回しが大事。最後のポタポタという何滴かの水加減で味が変わるんです」と悠二さん。
宿に戻ったばかりの頃に、宿でおいしいそばを出したいと、東京・神楽坂のそば店『たかさご』のそば職人からそば打ちを習った。その店はつなぎを一切使わない十割そばだったから、『たから荘』のそばも十割だ。
「十割そばは味と香りがダイレクトに伝わりやすいのが魅力。おいしかったといっていただけるのが張り合いになりますね」
水回しや茹でたそばを締めるのは、清らかな沢の水。「寒ければ寒いほど、そばはおいしくなるんです。冬は頭にキーンとくるくらい、水が冷たいんですよ」
夕食で十割そばとともに出すのは、地元・檜原村の豆腐やこんにゃくの刺身、フキ味噌、ヤマメの唐揚げ、キノコや野菜の天ぷらなど山の宿らしいメニューである。
首都圏から列車とバスを乗り継いで行ける東京の隠れ宿には、想像をはるかに超える癒やしがある。
『たから荘』の詳細
取材・文・撮影=野添ちかこ
『旅の手帖』2024年1月号より