今回の“会いに行きたい!”
滋賀県高島市『椿聚舎』女将の奥山喜美枝さん
こんなふうに泊めてあげたい。理想を形にしたらこうなった
道端の山野草が美しく空間を彩り、摘みたての葉ワサビやセリが食卓に並ぶ——。
『椿聚舎』のおもてなしは四季のリズムに寄り添っている。それが可能なのは、すぐそばに豊かな自然があるから。「植物が『ここにいるよ』と教えてくれるのよ」と女将の奥山喜美枝さんは笑う。
大阪・枚方市の出身。看護師として32年の経験を積み重ねた女将がこの宿を開業したのは、2005年のことだ。別荘を建てるために購入していた土地に、「こんなふうに泊めてあげたい」という理想を詰め込んだ宿を造り、みずからの夢を実現した。
『椿聚舎』の名前は、ツバキが好きだったから。「寿」ではなく、「聚」の文字を当てて、ほかにはない屋号となった。
実家が旅館業だったわけではなく、まったくの門外漢。でも、若い頃から宿の雰囲気が好きで、伊豆の『あさば旅館』や熱海の『蓬莱』など、名宿といわれている宿を訪ね歩いた。
本が好きで、島崎藤村や吉川英治などを読んでは、歴史や文学の世界に想いを馳せながらゆかりの地に足を運んだ。
その感性を生かして総檜(梁などは一部松)の建屋を建築。設計は三重県の建築家に依頼をし、宮大工の手により釘を一本も使わず、伝統工法の木組みの技術で組み上げた。家具や建具、寝具にいたるまですべてに上質なものを取り入れ、木のぬくもりを感じる素敵な宿ができあがった。
春にはソメイヨシノの美しい花が咲き誇り、すぐそばを流れる八王子川には天然のヤマメやイワナ、アユなどが泳ぐ。初夏は近くでホタルが乱舞する。
「このあたりは湧き水で水がいい。だから料理もおいしいんです」。別荘代わりに訪れる人も、年々増えている。
労力はいとわず、心をこめてその一品に命を吹き込む
料理へのこだわりも際立っている。春はヨモギを摘みヨモギ餅にしたり、庭に生えたワサビの葉を醬油漬けにしたり、手間隙を惜しまない。
「塩や砂糖、味噌、醬油などの調味料は買っていますが、柚子胡椒(ゆずこしょう)も手作りだし、梅干しも自分で漬けています」と喜美枝さん。竈(かまど)で米を炊き、漬物の赤カブラは12月に一年分を手作りする。
開業前は3年間、京都の料理研究家に師事し、茶懐石の先生から基本を教わった。料理もお菓子もノート5冊分くらいは勉強したそう。でも、ベースになっているのは母や祖母から受け継いだ手仕事だという。
「ほら、むかしの人はすべてを家でまかなっていたでしょう。私にもそのDNAは入っているんだと思うわ」
夕食のメイン料理は地鶏の近江軍鶏(おうみしゃも)、冬は脂がのっておいしい天然真鴨、きめが細かい肉質の近江牛の三つから予約時に選ぶ。
この日は、近江軍鶏を味わうことに。メインのほかに、1時間炊いた小鮎の甘露煮、くりぬいたユズに自家製味噌や胡桃(くるみ)、ユズの果汁などを入れて蒸し、3カ月干した「柚餅子(ゆべし)」、滋賀県の郷土食で、乳酸発酵させた「鮒(ふな)寿司」など、手の込んだ料理が次々に振る舞われる。器は厳選されたもので、箸はすべてご主人の手作りだという。
「三つ葉もクレソンも自生しているのを摘んでくるの。雑草と間違って抜いちゃうと困るから、雑草抜きも、全部私の仕事なの」。この料理を味わうためだけにやってくるお客さんが多いのもうなずける。
翌朝の朝食では琵琶湖の固有種、小魚のモロコを炭火で焼いてくれた。私の頭の中では童謡『ふるさと』がリフレインする。歌の中に出てくる「かの川」は、きっと八王子川みたいな川だったに違いない。
糸から植物で染める手仕事から伝わる温かみ
喜美枝さんが身につけているエプロンや料理の下に敷いたマット、刺し子の刺繡が施されたおしぼりなども手作りだ。空いた時間があれば編み物や裁縫で手を動かしてチャチャッと作るという。
30代の頃はお稽古(けいこ)を五つ六つ習い、40代になってからは日本刺繡も始めた喜美枝さん。
「好奇心が旺盛なんです。娘の成人式の着物には総刺繡を施したんですよ」。何を作るか考えるのが好きで、日々創作を続けている。
毛糸で靴下や手袋を編み、友人とお茶をするときには人数分を持っていく。いまは友人のお孫さんにベストを編んでいる。旅館業を営みながら、そんなことができるのかと感心してしまうが、喜美枝さんにとっての手仕事は新たに時間を作るものではなく、暮らしの一部として、すでに組み込まれているのであろう。
作務衣(さむえ)やエプロンのほか、ケヤキの箱階段の簞笥(たんす)の上に置かれた小銭入れやレース編みの巾着袋、ハンカチなどの土産物も手作りである。
手編みの膝がけは、周辺で採った栗やクララなどの植物で毛糸を染めた草木染め。
「日本絵画も収集していて、常連さんや親しい友人からは『あなたの趣味の世界にいるみたいね』と言われます」
美しく、ぬくもりを感じる空間が、モノと丁寧に向き合う、日本人の美意識を思い出させてくれる。
『椿聚舎』の詳細
取材・文・撮影=野添ちかこ
『旅の手帖』2024年4月号より