ふとしたアイデアから実現したSLやアプト式鉄道の運転
年間とおして多くのSLが運行されているほか、世代問わず旅情を誘う客車列車や、ノスタルジックな車窓に駅舎、大手私鉄で活躍し、移籍してきたベテラン車両など、大井川鐵道の魅力は数えきれない。
「昭和51年(1976)、国内で蒸気機関車の運行が終了したその半年後から、弊社ではSLの復活運転を開始しました。いま思うと先進的な取り組みかもしれない」と話すのは、大井川鐵道広報室の山本豊福さん。
「昭和44年(1969)、大井川鐵道の経営権に名鉄が関わることになったのですが、『近い将来、ここは生活路線としての経営は難しい』と考えていたようで。そこで『SL』だったわけです。名鉄から派遣された白井昭氏が、大井川本線でのSL復活に先がけ、昭和45年(1970)に井川線の側線を使い観光目的でSLを走らせたほか、井川線に採用したアプト式についても『日本唯一だ!』と白井さんが大宣伝して関心を集めました。こうして観光需要に特化する現在の形ができていきました」。
続いて「大きなチャレンジだった」と口にしたのが、「『きかんしゃトーマス号』の運行です。白井氏が中心となって始まったSL列車の復活運転やトーマス号も、発案者一人の力では運行も継続もできない。これまでの取り組みやイベント列車などは、ふとしたアイデアから実現したものばかり。そうした意見をすぐに汲み上げ、柔軟に検討し、実現する。社員全員で、大井川鐵道を末長く次の時代に継承していきたいです」。
多くの人々に支えられ、未来に向かって大鉄は走り続ける
一方で、2022年に発生した台風の影響により、現在も大井川本線川根温泉笹間渡(ささまど)〜千頭(せんず)間で不通が続く。
「状況は正直辛いところはあり……。そのため、SL・EL急行を2往復体制にしています。ただ、全線復旧しても、大鉄だけの力で持続性のある鉄道にできるかというと、大きな課題が残ります。やはり地域に必要とされる鉄路にならないといけない。そのためには、沿線地域とわれわれ鉄道事業者がともに未来の姿を考えていく必要があるのです」。
検修庫では、職人技ともいえる技術をもつ技術掛たちが日々車両と向き合う。製造から半世紀以上経った車両も多く、修繕には手がかかる。不具合があればその原因を一つ一つ探り、部品がなければ造り、削り、雨漏りがあればそれをすべてふさいでゆく。
注油作業だって文字どおり油断すれば部品の焼き付きにつながり、致命的な故障を起こしかねない。貴重な車両たちが安全第一に故障なく運行を続けられているのは、こうした人たちの仕事の賜物だ。
そして、線路を安全に保つ保線員や駅員、事務職、そして乗務員など数えきれない人たちの力で鉄道は今日も走り続ける。
「ここにしかない」に会いにゆくことができる大井川鐵道の旅路。いつまでも大鉄が“大鉄らしく”あり続けるために。次はいつ来ようか、誰と来ようか。そんな近い再訪を胸に秘めつつ、列車旅はまだまだ続く。
検修庫に潜入!
大井川本線全車両の保守点検を行う検修庫。製造から半世紀経つ車両も多く、さらに予備部品がないものが大半で、部品を一から製作することも。SL、電車、客車の3班に分かれ15名が従事。その技の数々は先輩から継承される匠の世界だ。
大鉄が誇る“なつかし”車両の数々!
7200系
昭和43年(1968)製造。首都圏の東急電鉄で活躍後、青森県の十和田観光電鉄で運行。2012年に同路線が廃線となったのち、約850km離れた大鉄にまさかの2度目の大移籍。立体的な先頭形状が特徴的なステンレスカー。
16000系
昭和41年(1966)製造。関西圏を走る近鉄電車の特急車両として活躍し、2004年に大鉄へ。近鉄時代の旧特急カラーを踏襲しており、そのカラーリングは大鉄の素朴な風景にそっと寄り添うようにマッチしている。
21000系
昭和33年(1958)製造。南海高野(こうや)線で活躍し、平坦な河内平野での高速走行と高野山へ続く急勾配の両方に適合した性能をもつ。カメラのズームレンズに例え「ズームカー」と呼ばれ、丸い顔と種別標が愛らしい。
取材・文・撮影=村上悠太
『旅の手帖』2024年5月号より