吉永陽一(達人)の記事一覧

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子供たちの歓声に包まれた谷戸に、ひっそりと残る弾薬庫の面影~田奈弾薬庫 後編【廃なるものを求めて】
神奈川県横浜市青葉区にあるこどもの国は、多摩丘陵の谷戸地形を利用した陸軍田奈弾薬庫でした。戦後米軍へ接収され、朝鮮戦争では弾薬の保管に使用されましたが、1961年に返還となりました。1959年に皇太子殿下ご結婚の際に、全国から寄せられたお祝い金の基金や多くの団体などの協力によって、1965(昭和40)年5月5日にこどもの国が開園。敷地約100ヘクタール(約30万坪)の広大な敷地は、自然の中で子供たちが沢山遊べる施設となっています。
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こどもの国線の線路沿いには軍用線時代の面影~田奈弾薬庫 前編【廃なるものを求めて】
神奈川県横浜市青葉区にある『こどもの国』は、多摩丘陵地帯の谷戸地形を生かし、牧場、乗り物、芝生や遊具といった、自然の中でのびのびと遊べる児童遊園施設です。渋谷駅から東急田園都市線に乗り、長津田駅からこどもの国線に乗り換えて約1時間で到着できるアクセスと、近隣地域から車で来園できるため、平日休日関わらず親子連れや、学校のオリエンテーションなど多くの人々でにぎわっています。
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散りかけた桜の下で佇む祠のような廃駅、旧谷汲線更地駅へ【廃なるものを求めて】
いまから数年前のこと。岐阜県の樽見鉄道を訪れた帰りに車を走らせていると、「そういえば名鉄谷汲(たにぐみ)線の廃線跡が近くにあるね」と友人が思い出し、もう暗くなりつつあった県道を走って、旧谷汲線更地駅へ行きました。読み方は「さらぢ」です。谷汲線は2001年に廃止となり、この駅も運命を共にしました。谷汲線前身の谷汲鉄道によって、大正15年(1926)に開業した駅で、当初は列車交換機能が備わっていたそうです。
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土佐電伊野駅から分かれる留置線跡。終点から分岐して住宅地をヘロヘロと延びる線路へ【廃なるものを求めて】
私は線路が好きです。線路の何が好きなのかといえば一言で語れないのですが、形状であったり、集まって分岐する姿であったり、「この先はどこへいくのだろう」とか、小さい頃からワクワクしながら線路を見つめてきました。
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やがて消えゆく渋谷駅の山手線旧外回りホーム【廃なるものを求めて】
今回紹介するのは解体途中の物件です。「廃なるもの」に入るか、ちょっと疑問かもしれませんが、大都会に残り、普段から目にできるものなので載せます。場所はJR渋谷駅、山手線外回りホームの名残です。解体途中で、なおかつ立ち入ることが不可能な場所ゆえ、現行のホームから眺めるに留める存在ですが、いつかは消えていくものです。
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一部が生活道路となった高速道路。その廃道を堪能する【廃なるものを求めて】
高速道路は都市間交通と流通を支える重要な交通路です。名神高速道路の開通を皮切りに今日でも全国へと路線網を伸ばしており、衰退することを知らないのではないかと思われますが、高速道路にもわずか2か所だけ廃道があります。
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大夕張と呼ばれた地のダム湖・シューパロ湖で、沈みゆく鉄道遺構を空撮する【廃なるものを求めて】
今回は北海道の話です。夕張より東側に大夕張と呼ばれた地があり、そこにはシューパロ湖というダム湖があります。この名を聞いて「ああ、ダムに沈んだ森林鉄道の三弦橋か」と連想した方は、きっとこの記事の写真を食い入るように見ることでしょう。2013年9月、拡張されるシューパロ湖へと沈む予定の下夕張森林鉄道などの遺構を空撮しました。
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韮崎のEF15。貨車を従えたデッキ付き電気機関車との出合い【廃なるものを求めて】
無骨なスタイルのデッキ付き電気機関車が好きなんです。今回の「廃なるもの」は、ちょっとイレギュラーかもしれません。いや、最近イレギュラーな内容ばかりで、純粋な「廃」巡りをしていない気もしますが……。いまからうん10年も前のこと。まだ幼稚園の頃ですが、渋谷並木橋の上から茶色い電気機関車が黒い貨車を牽いて眼下を通り過ぎたのを、うっすらと記憶しています。たしか先頭には厳つい手摺りのついたデッキがあったような……。その機関車はEF15形電気機関車ではなかろうかと思っています。EF15は戦後間もない1947年に誕生した貨物用直流電気機関車で、車体色は「ぶどう色2号」と称す焦茶色を纏っていました。総数202両製造され、山岳地帯用に改造されたものもあり、貨物用機関車ゆえに少々地味な存在でした。
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築百年。鉄筋コンクリート造りの3本の無線塔を空から見る【廃なるものを求めて】
ニイタカヤマノボレ一二〇八。おそらく、さきの大戦で一番有名な暗号文でしょう。真珠湾攻撃を命じる暗号文が送信されたとされるのは、長崎県佐世保市に聳える海軍針尾送信所と、広く言われています。もっとも、真珠湾攻撃部隊に向けて送信したのは千葉県の船橋送信所らしいのですが、針尾送信所は終戦まで海軍の幾多の無線を送信し、戦後は海上保安庁が管理していました。現在は無線としての役目が終わって、2013年に国の重要文化財に指定されています。針尾送信所が建設されたのは1922(大正11)年です。鉄筋コンクリート製の塔が3本、正三角形状に配置され、塔の高さは3本とも揃っておらず135~7mなので、約136mとします。この高さは竣工当初日本一を誇っていました。
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丸ノ内の近衛師団の爪跡を探して~皇居の近くにひっそりとある7つのベンチは陣地跡【廃なるものを求めて】
盛夏のある日。調べ物があって靖国神社と遊就館へ行った帰り道、夕焼けに染まりつつある空の下を歩いても汗だくとなって、北の丸公園まで来ました。武道館ではライブ中の音が漏れ聞こえ、公園の木々を歩くころにはその音響が蝉時雨へと変わります。皇居・北の丸公園は緑に覆われて、酷暑で火照った体を休ませるにはちょうどいい場所です。目的の場所は北の丸公園のはずれ、千鳥ヶ淵の畔にある小さな憩いスペースです。GoogleMapを開くと史跡マークがついていて、こう記してあります。「千鳥ケ淵九八式高射機関砲台跡」。東京のど真ん中、皇居のすぐ隣に戦跡が眠っているのです。
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