桜の精にとりつかれた桜守(さくらもり)

御年85。半世紀以上にわたって人生を桜に捧げてきた。森田さんが見つけた桜の新種は、「龍江の誉」で実に五つ目となる。

「もとは、平安時代から京都に伝わる『御車返(みくるまがえ)し』という、一重と八重の花をあわせもつ半八重の品種でね。その種を庭の畑に蒔いて実生(みしょう)苗を数本育てていたのだけど、10年越しにようやく咲いた一本の木が、見たことのない花を付けたんです。薄紅色の御車返しに比べて、花弁の色が濃い。『関山(かんざん)』という八重桜に似ているけれど、関山よりも開花の時期が10日も早い。もしやという思いはあったよね」

葉や幹を含む98もの細かな項目をクリアし、新たな園芸品種「御車返し実生(仮称)」が世に送り出された。

森田さんが桜に魅了されて、もう55年。以来、自宅の畑でいまも数百本の桜を育てている。種から育てたり、接ぎ木で数を増やし、これまで3000本以上の桜の木を「ほしい」という人に譲ってきた。

「どこの誰に、どの木をあげたのか、全部ノートに書き残しているよ。娘を嫁に出すようなものだからね」

ほかにも、学校の植栽や街路樹として桜の木を寄贈しているほか、枯れ枝を取ったり、樹勢が悪いものを肥料で回復させるなど、市内の桜を守る活動にも精力的に取り組んでいる。それゆえ、町のどこにどんな桜があるのか、その桜がいつ見頃を迎えるのか、森田さんに聞けばなんでもわかる。

「もう20年以上になるかな。観光バスを相手に、毎年桜のガイドもしているの。市内あちこちの銘木を回ってね。ツアーはあらかじめ日程が組まれているから、桜の候補が一つだけだと、来た日に咲いていないかもしれないでしょう? だから、120本ほどある市内の桜のなかから『今日はここが見頃だ!』という1本をご案内するわけです」

飯田市には立派な一本桜が数多く残されていて、案内をするたびに、観光客から大きな歓声があがるそうだ。

みずからを「桜の精にとりつかれた」と話す森田和市さん。「桜はどこまで見ても覚めない夢です」。
みずからを「桜の精にとりつかれた」と話す森田和市さん。「桜はどこまで見ても覚めない夢です」。
濃紅の花弁が幾重にも重なった新種の龍江の誉。見頃を迎える4月10日頃は、街道の桜がまだ咲いていない時期なので紅い花がひと際目を引く。
濃紅の花弁が幾重にも重なった新種の龍江の誉。見頃を迎える4月10日頃は、街道の桜がまだ咲いていない時期なので紅い花がひと際目を引く。

桜の精がくれたご褒美 龍江の誉の名づけ親は……?

「桜だったらなんでも好き」と話す森田さんが、桜に目覚めたのは30歳の頃。仕事で松本市に向かう車中で出会った一本の桜が運命を変えた。

「小高い場所で咲く一本の八重桜が目に留まったんです。5月の風に吹かれて、枝先で揺れる紅い花。後ろには雪をかぶった南アルプスが広がっていて──。その素晴らしい光景に、一瞬で心を奪われました」

その日から、頭の中は桜のことでいっぱい。

「突然変異ですよ。それまで花などまるで興味がなかったのに。あんな桜を、自分の手で育ててみたいと思ってしまったんです。とはいえ、当時は桜の文献がなかなか見つからず、百科事典に載るわずかな情報を頼りに独学で勉強を始めました」

京都に有名な桜の先生がいることを知り、アポもとらずに押しかけたことも。

「先生が書いた限定1000部という貴重な桜の本をどうしても手に入れたくてね。玄関先で『もうありませんわ』とあっさり断られたけど、何時間も粘って、ようやく分けてもらうことができました」

日本画で描かれた桜に花弁の数や開花時期など品種の説明が細かく添えられたこの本は、森田さんの生涯のバイブルとなった。

さて、「御車返し実生」の仮称が付けられた新種の桜には、後日談がある。

「八重桜街道の枯れた桜の木に代わって庭から捕植した桜が新種に認定されたものだから、品種名は地区内から公募することにしたんです」

75件の応募の中から選ばれた「龍江の誉」の名づけ親が、なんと奥様の昭子さんだったというのだ。

「誰からも応募がなかったらかわいそうだなと思って、こっそり応募したの」と、森田さんの隣で昭子さんはそっとほほえんだ。名前の由来は、息子さんが通っていた小学校の校歌の一説「誉れも高き龍江小」から。

「桜にのめり込みすぎて女房には苦労をかけたけど、この歳になってとんでもないご褒美をもらった気分だよ。『私と桜、どっちをとるの?』なんて迫られたこともあったけど、いまのところ桜以外の女は作ってないから許してください(笑)」

京都まで押しかけ、粘り勝ちで手に入れた『桜花抄』。約110種の桜が載っている。
京都まで押しかけ、粘り勝ちで手に入れた『桜花抄』。約110種の桜が載っている。
10品種の八重桜が2㎞にわたって植えられている天龍峡 八重桜街道。見頃(例年なら4月中旬)の時期にはライトアップも行う予定だ。 
10品種の八重桜が2㎞にわたって植えられている天龍峡 八重桜街道。見頃(例年なら4月中旬)の時期にはライトアップも行う予定だ。 

龍江の誉を見るなら

天竜峡 八重桜街道
【☎】0265-27-3004(龍江自治振興センター内)
【時間】見学自由
【住所】長野県飯田市龍江2501-2
【アクセス】JR飯田線天竜峡駅から徒歩10分

取材・文=松井さおり 撮影(人物、桜花抄)=佐々木健太
『旅の手帖』2024年3月号より

月刊『旅の手帖』で、11号にわたって読者のみなさんに聞いた、お気に入りの場所やものたち。行ってみたい、もう一度行きたい花の名所のランキングを発表します!