『花束みたいな恋をした』の聖地に

『木村屋』は、京王線の千歳烏山駅から歩いて10分のところにある。人でにぎわう駅前を離れた、粕谷区民センター通り沿いだ。もともとにぎやかな商店街だったが、今は残った店もわずかで、ひっそりとしている。

そんな通りにある『木村屋』が注目を浴びたのは、菅田将暉と有村架純が主演した映画『花束みたいな恋をした』(2021年)で、ロケ地として使われたため。恋人の麦(菅田将暉)と絹(有村架純)が、『木村屋』で焼きそばパンを買い、2人で多摩川の河川敷で食べるシーンがあったのだ。

店に飾られている菅田将暉と有村架純のサイン。
店に飾られている菅田将暉と有村架純のサイン。

映画の公開後、「聖地巡礼」で『木村屋』を訪れ、焼きそばパンを買うファンが殺到。映画のシーンと同じく、外からガラス越しにパンを覗き、写真を撮るファンが大勢、いたという。小さな店だけに人が押し寄せて困ったかと思いきや、「あれでコロナを乗り切ったのよ」と言うから、面白い。なんとも絶妙なタイミングの『木村屋』バブルだったのだ。

このエピソードを聞かせてくれたのが、先代、小泉勝彦(かつよし)さんの妻で、今も店に立つキミ子さんだ。とにかく明るく、話していると、なんだかこちらまで元気になってくる。

にぎやかな商店街のパン屋さん

勝彦さんが千歳烏山で『木村屋』を始めたのは、1964年。小田原から上京した勝彦さんは下北沢にあった『木村屋』で修業した後、27歳のときに独立して店をかまえた。千歳烏山の駅まわりは当時からにぎわっていたが、店のある粕谷は畑ばかりで、通りも店がポツポツとあるぐらいだった。

かつての粕谷区民センター通り。商店街ができ始めている。
かつての粕谷区民センター通り。商店街ができ始めている。

やがて、周囲の畑は宅地となり、商店街もにぎわってくる。八百屋に肉屋に魚屋、金物屋に履物屋に床屋、和菓子屋に惣菜屋に居酒屋、生活に必要なものはこの商店街ですべて揃うので、駅前まで出る必要はなかったという。

なつかしいシベリアもちゃんとあります。
なつかしいシベリアもちゃんとあります。

『木村屋』も菓子パンや惣菜パンなどをそろえた街のパン屋として繁盛。当時は成城のほうまで御用聞きに行っていたという。

プリンパンに客が殺到

そんな折、勝彦さんが新製品を作り出す。菓子パンの生地にプリンをポン、と乗せたプリンパンだ。プリンの下には生クリームが敷かれていて、パン生地が湿らないような工夫がされている。食べてみると、プリンと生クリームという忘れかけていた「ごちそう感」が、なんともうまい。心にしみてくるおいしさ。

左がプリンパン210円。なつかしいおいしさがある。
左がプリンパン210円。なつかしいおいしさがある。

パンの売上が落ちる夏場に、冷やして食べられるものをと考案されたプリンパン。お客さんのリクエストでコーヒーゼリーバージョンも作ったのだが、「ゼリーって温まると溶けちゃうでしょ。それ知らなくて、常温で置いていたらパンがビショビショになっちゃって!」(キミ子さん)なんて失敗談もあったのだそうだ。ちなみに今は、注文するとその場でゼリーパンを作ってくれるので、ビショビショになる心配はない。

さて、このプリンパンが、2007年に放送された『出没!アド街ック天国』(テレビ東京系)で紹介され、それを見た人たちが店に押し寄せてきた。「あのときは大変だったわよ。2人で作っていたから、間に合わなくて、もうてんてこ舞い」

大変だったというわりには、キミ子さんはずいぶん楽しそうに、当時を振り返っていた。

コールスロー210円は具がこぼれそう! ていうか、こぼれる!
コールスロー210円は具がこぼれそう! ていうか、こぼれる!

期せずして世間の注目を浴びてしまった『木村屋』だが、その本質は昔から変わっていない。ラインナップはアンパンなどの菓子パン類、カレーパンなどの惣菜系にサンド類。どれも安くて、ボリュームたっぷり。そして、パン生地はどれもふわふわだ。

「パンの作り方は変えていませんよ。柔らかいほうがいいという人がいるから、ドックのパンを柔らかくしたぐらい」

話を聞いていると、キミ子さんと同年代の女性客が入ってきて、パンを買いがてら世間話が始まる。近所のことや、今度、一緒に出かける計画など、2人ともニコニコとすごく楽しそうだ。

パン屋さんはかつて、街の社交場でもあった。店に立つのは店主の妻。買いに来るのは、家事がひと段落した、近所の奥さんたち。そりゃ、立ち話も弾む。『木村屋』では、そんなのどかな光景が今も見られる。2023年で創業から59年目、店主も娘夫婦の長江信也さんと美香さんに変わるなど、いろいろあった『木村屋』だが、今も変わらず街のパン屋さんなのだ。

チェーン店が並び、人で賑わう千歳烏山駅から離れた粕谷は、キミ子さんいわく「取り残されたところ」だという。それでも、そんな粕谷で『木村屋』という街のパン屋さんは、しっかりと息づいているのだ。

住所:東京都世田谷区粕谷3-30-14/営業時間:7:40~19:00ぐらい(日・祝は8:00~19:00ぐらい)/定休日:火、第1・3水/アクセス:京王電鉄京王線千歳烏山駅から徒歩10分

取材・文・撮影=本橋隆司