海底炭鉱の端島はコンクリートで覆われ、大正時代から軍艦島と呼ばれた

かつては「端島炭坑」として栄え、島全体を堅牢な護岸で覆われ、みっしりとコンクリートの高層鉄筋建物が凝縮されて立ち並びました。1974年に炭鉱が閉山し、島民は全員去って無人化。以後48年間、島全体が廃墟となって時を刻んでいます。

廃墟好きの聖地、一度は訪れたい場所、廃墟の楽園、などなど大袈裟な表現で語られるほど軍艦島は我々にとって憧れの場所。現在はツアーに参加することで、一部の場所に立ち入ることができます。

夏の特別編として、長崎県へ足を伸ばして軍艦島ツアーに参加した模様を、今回から3回に分けてお伝えします。

軍艦島の全景。このアングルは西側の船上から。よく見るアングルである。
軍艦島の全景。このアングルは西側の船上から。よく見るアングルである。
北側から。この角度だと戦艦というよりもアメリカの監獄の島アルカトラズに似ているような……。
北側から。この角度だと戦艦というよりもアメリカの監獄の島アルカトラズに似ているような……。

軍艦島の歴史や経緯、調査探求をレポートすると膨大になるため、ツアーでも撮れる範囲の紹介にフォーカスを当てました。ツアーで巡れるところは僅かで、軍艦島の表面的な部分になりますが、それだけでも濃厚だったのです。

軍艦島の特徴である「コンクリートの護岸で固められ、高層アパートが建つ姿」は、明治時代~大正時代の段階で形成されており、1916年(大正5)には日本初の鉄筋コンクリート(以下、RC造)7階建ての高層アパートが建ちました。大正時代には8棟のRC造アパートが建設されていきます。

上陸ツアーの船上から島の全景を観察できる。
上陸ツアーの船上から島の全景を観察できる。

軍艦島の通称が冠されたのも大正時代のこと。三菱長崎造船所で建造中の戦艦土佐を見た新聞記者が、土佐の姿と端島のいでたちが似ていることから、「軍艦島のよう」と表現したのが始まり。というのが定説です。なお土佐は、建造中にワシントン軍縮会議によって廃艦の対象となり、進水した後は兵器開発の標的艦となって高知県沖で自沈処分となりました。

いざ軍艦島上陸ツアーに参加! 波の高さによって上陸できない日もある

軍艦島は2015年に「明治日本の産業革命遺産」のひとつとして、世界文化遺産に登録されました。登録以前から外海に晒された廃墟のため危険で、上陸禁止となっていましたが、安全に巡れる観光ルートが整備され、ほんの一部分ですが軍艦島に上陸し廃墟群を見学できるようになりました。そのルートでは先述した日本最古の鉄筋アパート「30号棟」の外観も拝めます。

軍艦島上陸ツアー会社は数社(2021年段階では5社)あって、それぞれ特色を活かしたコースを盛り込んでいるので、上陸する方は検索し検討してください。

長崎湾を出帆してひたすら南下していく。
長崎湾を出帆してひたすら南下していく。

軍艦島は長崎半島の西4.5kmの外海に囲まれた場所。波の高さによっては安全に桟橋へ接岸できないため、上陸断念となるケースも多々あるとのことです。こればかりは自然相手なので運任せとなります。上陸できない場合の対処や代替プランなど、ツアー会社によって異なります。上陸できるか否か、波が凪(なぎ)状態のことを願いつつ、ツアー会社へ申し込み、当日を待ちました。

長崎湾では戦艦武蔵を建造した三菱長崎造船所を横目に進む。海自の新型護衛艦がいた。
長崎湾では戦艦武蔵を建造した三菱長崎造船所を横目に進む。海自の新型護衛艦がいた。

ついに乗船。暑さ対策と酔い対策は万全に

6月のある日。天気は太陽がジリジリ差し込むほどの快晴。波は凪状態で、上陸は叶うとのこと。今日は運がいい。それだけで行った気になれました。炎天下はク○暑くて辛そうだけど、上陸できることだけでも幸せです。

ツアー会社の説明を受け、大きめのクルーザーに乗り込み出帆。戦艦武蔵を建造した三菱長崎造船所を横に見つつ、ガイドさんの楽しい説明を聞きながらしばしの船旅です。ガイドさんは江戸末期からの長崎の歴史を分かりやすく語ってくれるので、軍艦島ができた背景も知ることができました。

私は仕事柄乗り物酔いには強いのですが、数十分の船旅は酔いやすい人もいるでしょう。しかも暑い季節となればなおさら熱もこもりやすい。暑さ対策と酔い対策もしたほうがいいですね。長崎湾から伊王島を越え、高島が見えてきます。高島は、三菱石炭鉱業の高島炭坑があった島。現在は石炭資料館もあり、時間があればこちらも寄りたいところです。(今回はパスしました)

軍艦島の東側が見えた。この姿は確かに艦船だ。
軍艦島の東側が見えた。この姿は確かに艦船だ。

高島を過ぎ、ガイドさんの声が「あれが軍艦島です!」と高くなります。船内の参加者はみな頭を持ち上げ、船外を注視します。もちろん私も。外海にポッカリと浮かぶ船のような形をしたモノ。それが憧れであった軍艦島を初めて見た感想です。

船内から軍艦島の勇姿を拝みたい! 焦る気持ちで浮き足立ちます。が、そこはちょっと我慢。ガイドさんの説明のもと順番に船外デッキへ出て、その姿を海上から見られます。

落ち着きましょう。

小さな島に密集するコンクリート建築群。その遺構を船から存分に眺める

デッキへ出る。

ああ、軍艦島だ。

憧れの島が目と鼻の先にある。やっとここまで来られた。船だ。確かに艦船に見える。左が艦首で、右が艦尾か。戦艦土佐というより、左側の形状からして三段甲板の赤城や加賀に似ている。

とにかく、艦船である。

戦艦土佐というより三段甲板時代の空母赤城に似ている気がする。
戦艦土佐というより三段甲板時代の空母赤城に似ている気がする。
こちらが三段甲板の空母赤城。艦首の姿が上写真の軍艦島左側と似ている。写真所蔵:吉永陽一/本多伊吉コレクション
こちらが三段甲板の空母赤城。艦首の姿が上写真の軍艦島左側と似ている。写真所蔵:吉永陽一/本多伊吉コレクション

感無量です。

人々が群がるデッキで一人静かに軍艦島を見つめながらも、心中は穏やかならず。興奮していました。それでは海側から軍艦島の遺構を見ていきましょう。

拝観です。

よく観察できるよう、船が島へ近づいてくれます。24mm-200mmのお手軽ズームレンズを持ってきてよかった! 上陸したら広角系レンズの出番ですが、船上からは望遠レンズが役に立ちます。

北東側へ近づく。手前は端島病院の建物だ。
北東側へ近づく。手前は端島病院の建物だ。

まずは北東側から。目視で5m以上はあるかと思える護岸のコンクリートは、まさに城郭のよう。明治期は石灰と赤土を混ぜた「天川」と呼ばれる石積み工法で護岸を築きましたが、後年により堅牢なコンクリート擁壁へと補強されました。その上に聳(そび)え立つRC造の建築物。

「凄い。」

この一言で片付けるには表現足らずですが、凄い……。

一番左端の低層が「ちどり荘」。その右隣が「端島病院」。右端が「隔離病棟」。背後の一段と高層の建物は鉱員社宅「65号棟」。
一番左端の低層が「ちどり荘」。その右隣が「端島病院」。右端が「隔離病棟」。背後の一段と高層の建物は鉱員社宅「65号棟」。

北東側の建物は端島病院と隔離病棟です。炭鉱と島民の健康と安全を見守ってきた病院です。

亡くなった方は、軍艦島に火葬し埋葬する設備がなかったため、北側にある中の島と呼ぶ小島で行われていました。中の島も明治初期は炭鉱のベースとなった島で、一部にその痕跡があるとのことですが、現在は上陸禁止です。

端島病院(左)と隔離病棟(右)。背後は65号棟。護岸は10m近くあると思われる。それほど波が高い。釣り人がいるのはなぜだろう。(グレーな存在なのか)
端島病院(左)と隔離病棟(右)。背後は65号棟。護岸は10m近くあると思われる。それほど波が高い。釣り人がいるのはなぜだろう。(グレーな存在なのか)
手前の低層がちどり荘。右が端島病院。背後の65号棟の威容がたまらない。
手前の低層がちどり荘。右が端島病院。背後の65号棟の威容がたまらない。

文字数がいっぱいになったので、ここから先は次回!

更新までしばしお待ちください。

取材・文・撮影=吉永陽一